
丸福ボンバーズ
福島三郎さん
千歳船橋を拠点に活動をする劇団、『丸福ボンバーズ』を主催する福島三郎さんにお話をうかがおうと向かったのは、千歳船橋駅から歩いて3分ほどの多目的劇場 APOCシアター。駅近という立地にも関わらず、黒子のようにひっそり控えめに佇むこの劇場は、丸福ボンバーズのホームグラウンドだ。日も暮れてちょうどソワレの幕が上がるくらいの時間、APOCシアターの扉を開くと、ユニークなアート作品が点在するカラフルな空間の中に、キャップを被った小柄な男性がひとり、スッと姿勢良く立っていた。
文章:内海織加 写真:阿部高之 構成:鈴石真紀子
演劇との運命の糸は、ひょいと目の前に現れた
ほんのりとした緊張感を抱えたまま「はじめまして!」と挨拶を交わすと早々に、『丸福ボンバーズ(以下、丸ボン)』が定期的に公演を行っている劇場を見せてもらうことに。2階へ伸びる細い階段を上がって行く福島三郎さん(以下、三郎さん)の軽やかな足取りにホーム感がにじんで、主催者として、脚本家・演出家として、これまでこの階段を何十回、何百回と登り降りしたのだろうと想像が膨らむ。2階に上がると、彼は全体的に黒い壁に覆われた劇場の空間をゆっくり見渡したり、ひょいっとステージに上がってみたり。そして、客席のパイプ椅子に腰掛けてステージをまっすぐ見つめる姿を見て、ここが彼の定位置ということなのだろうと察した。
三郎さんはこれまで、商業分野も含めた数多くの作品において、演出や脚本を手がけてきた。その起点はどこだったのだろう。演劇そのものとの出会いを訊ねると、ほんの少し間を置いて、急になにかを思い出したように「ゔわぁ〜!」と声を発した。
「僕の母は東京生まれの江戸っ子。芸ごとが好きなお父さんに連れられて、子どもの頃から歌舞伎や落語を観に行っていたようで。その影響で自然とお芝居好きになったみたいです。結婚して兄二人を産んだ頃はまだ東京にいたのですが、三男の僕が生まれる頃に父が家業を継ぐために岡山に住まいを移すことになって。当時の地方ではそういう公演の機会がほとんどなかったので、母は東京の劇団を呼んで演劇鑑賞をする会員制の演劇観賞会に入会していたんです。会員を増やさなくちゃならないから、僕も中学生の頃に入会させられて。それが、演劇との出会いですね」
入会“させられた”というワードチョイスに、当時の三郎少年の面倒くさそうなイヤイヤな表情と、それでも芝居好きのお母さんについていってあげるやさしい一面を思い浮かべてしまう。
「有名人が出ている演劇が多かったのですが、当時の僕はあまりそういう舞台におもしろさは感じなくて、『芝居ってつまんねーの!』と思っていました。でも、そんな中でも魅力的なものには出会っていて、井上ひさしさんのこまつ座は好きでしたし、衝撃を受けたのは劇団テアトル・エコーの『サンシャイン・ボーイズ』。冗談みたいな話ですけど(笑)」
演劇にまったく興味のなかった中学生の少年が、おもしろいと思えた演目が『サンシャイン・ボーイズ』というのは、あまりに運命的すぎる。というのも、三郎さんは三谷幸喜さん主催の劇団『東京サンシャインボーイズ』のご出身。演劇との出会いも意図的ではなく、さらにはそこでシンクロニシティが起こっていたとするならば、その展開にもわくわくせずにいられない。
「高校時代はバンドをやっていたんです。モテたくて(笑)。地方って狭いので、練習するスタジオをきっかけに他校の学生とも仲良くなるんですよ。その中のひとりに梶原善という男がいて。彼がまだ無名だった東京サンシャインボーイズの舞台に立っていたんです。僕が予備校に行くという名目で上京してしばらく経った頃、“たっちょ”というバンド仲間から連絡網が回ってきて、『ひとつ役が余っているから誰かやるやつおらんかー空いとんじゃー! て善くんから言われとんじゃけどー』と。それで、じゃあやってみるわ! って返事をして。初めて触れた三谷さんの作品は、今まで観たものとは比べ物にならないくらいおもしろくて。その公演の打ち上げの流れで、三谷さんも役者もみんなで善くんの家に集まった時に、どうやら僕が『ここで芝居をしたい!』って暴れたようで(笑)。朝起きたらコタツの上に一枚のメモが残されていて、きったない字で『三郎は預かった。三谷』って書かれていたんです」
あまりのドラマチックな展開に、思わず鳥肌が立った。そして、「その連絡の橋渡しをした“たっちょ”さん、すごくないですか!」と思わず興奮を伝えると、「まさに今朝、たっちょからLINEが来てびっくりしたところで。会えたらお礼を言わなくちゃ」と三郎さんはやさしい表情を浮かべる。
導かれるように、演じる側からつくる側へ
最初は役者としてスタートした三郎さんの演劇人生だが、途中で転機が訪れる。作る側への転身だ。その新たな扉もまた、ふとした瞬間に彼の前に現れた。
「東京サンシャインボーイズの『12人のやさしい日本人』という演目があるのですが、その3回目の上演は、中央のステージを360度囲む形で客席があるという構成でした。その舞台を作るときに『三郎は稽古場で常に僕の反対側にいて、気づいたことがあったら言ってくれ』と三谷さんに言われて。それが演出補という役割になるのですが、とてもおもしろかったんです。当時の東京サンシャインボーイズは稽古場を運営していて、劇団員が持ち回りで管理人をするのですが、当番の人は日誌を書かなきゃならないんです。どうせならおもしろいことを書いてやれ! って、いつもププっと笑っちゃうような小ネタを入れていて、どうやら三谷さんはそれがお気に入りだったみたいで。それも影響してか『三郎は僕側の人間だと思う』と言ってくれたことがありました。逆を返せば役者には向いてないよ、ということですけど(笑)。そこから、新作ができると『三郎どうする?』と聞いてくれて、演出補を選ぶようになったんです。今にしても思うと、とっても短い期間なんですよ、東京サンシャインボーイズって。僕自身は、在籍が6年くらいでその半分は演出補。作る側に行くことを自ら選んだというより、三谷さんが後押ししてくれたんです」
1994年に東京サンシャインボーイズが活動休止となった後、三郎さんは演劇ユニット『泪目銀座』で演出だけでなく脚本も担当するなど、活躍の領域を広げていった。「脚本を書けるとは思っていなかった」と彼は言うのだが、今書いているという事実に興味が湧いた。
「書いてみたいという気持ちがなかったわけではないのですが、三谷さんが原稿用紙もかけていたメガネもぐちゃぐちゃにするくらい、毎回苦しみながら書いているのを見ていましたからね。でも、役者さんと一緒に何かを作りたくて、そのためには材料が必要。だから脚本を書くようになって、今に至ります。もちろん、お客さんが楽しかったねって言ってくれたら嬉しいけど、まずは最初に読む役者さんを笑わせたいと思いながら書いています」
書くときの気持ちはきっと、稽古場の日誌から変わっていない。そう思うと、三谷さんが “僕側の人間 “と言った真意がわかった気がして、胸が熱くなってしまう。
前回の丸ボンの本公演『Goodbye my work! 〜退職の流儀〜』は、喫茶店の小さな店内を舞台に、さまざまな人が訪れては言葉を交わす会話劇。何気ない日常の欠片や繊細な心の動きが言葉のあちらこちらに散りばめられ、それらがテンポよく編まれていくのがなんとも心地よかった。そんな台詞や物語の構想は、どんなところから生まれるのだろう。
「きっかけになるのは、やっぱり人。興味のある人ですね。登場人物になりきって書いているから、自分=福島三郎としては思ってもいないことが台詞として出てくることもあるんです。よくアイデアが降りてくるとかいうじゃないですか。まさにそんな感じで、本当にこれ僕が書いたの? なんて思うこともありますよ。三谷さんのアドバイスで、台詞はすべて自分で声に出してみるのですが、後から読み返した時に、これ自分で一度口に出したんだよな、と驚くこともあるんです」
そして、あらためて「書くって大変ですか?」とお聞きすると、「大変ですね……!」と三郎さんは小声で即答した。
演劇を観たことがない人にも、この楽しさを届けたい
今、どんな生みの苦しみがあろうとも脚本を書こう! と三郎さんの創作意欲に火を灯すのは、丸福ボンバーズの存在だろう。なぜ、劇団を作ろうと思ったのか。そのはじまりを訊ねると、きっかけは東日本大震災だと言う。
「久しぶりに手伝った三谷さんの舞台の初日に、東日本大震災は起こりました。激しい議論の末、公演は継続することになって、毎回半分がキャンセルになっても、当日券で満席という毎日。でも、公演中に余震は続くし、楽屋のテレビでは福島の悲惨な映像が映し出されていて。その中で芝居をしているのは、少しだけ異様にも思えました。東北で起こっていることと、被災地を元気にしようとするさまざまな活動と、変わらずに劇場で公演を続けている僕たちと。その中で、自分が作りたいものってなんだろうと考えてしまって。そして、一度立ち止まったことで見えてきたのは、仕事で受ける商業的なものに限らず、お芝居を見たことがない人、見られる環境にない人たちにもお芝居を届けたいという想い。そのために、プロとしておもしろい舞台を届ける劇団を作りたいと思ったんです」
最初に三郎さんが声をかけたのは、副座長の野崎数馬さんと看板女優の八木さおりさん。その後も、年齢やバックボーンがさまざまなメンバーが続々と集まった。そして、三郎さんが千歳船橋周辺を歩いていて、たまたま出会ったのが後にホームグラウンドになるAPOCシアター。まずは、この場所から千歳船橋の人たちに演劇を届けようと、劇団としての活動がはじまった。丸ボンは、2012年にAPOCシアターの名前の由来にちなんだ作品、『A Piece Of Cake!』を上演して以来、約13年に渡って定期的な本公演を続け、千歳船橋に留まらず仙台市や水俣市など、地方にも演劇を届けている。
「2作目からは宮城県でも公演していて、仙台市以外でできる場所も少しずつ増えています。東松島の野蒜というところで公演をした時に、観にきてくれたご年配の方が、アンケートに『人生で初めてお芝居を観ました。すばらしかった!』と書いてくださって、それを読んだら泣けてきてね。あー、こういうのがやりたかったんだ! と。コロナ禍の影響でしばらく地方に行けていなかったのですが、また行けるように今準備しているところです」
地方に住む人たちに演劇を届け、観た人たちの心を明るく照らす。今、丸ボンが届けているのは、かつて三郎さんのお母さんが岡山の地で受け取っていたものでもあるのかもしれない、と思わず過去と現在がクロスオーバーする。
三郎さんが演劇のおもしろさを伝えたい相手は、大人ばかりではない。
「子どもたちに将来の夢を聞いた時に、野球選手とかアイドルとか言う子はいますが、舞台俳優って言う子っていないと思うんです。それって、舞台を見る機会がないから。三谷さんが東京サンシャインボーイズで掲げていたのは、乳飲み子から瀕死の老人までが楽しめる芝居。それってとても難しいことですが、できる限りそういうものを作りたいと思っています」
舞台の楽しさを子どもたちに伝える取り組みとして、「ちびっこボンバーズ」という参加型ワークショップも開催している。見るだけでなく、舞台装飾としての絵を一緒に描き、お芝居とは何かを楽しく伝え、最終的には子どもたちも役者として舞台に上がる。そうやって、体験を通して演劇は彼らにとって身近なものになっていく。このちびっこボンバーズには、丸ボンと親交が深い千歳船橋のヒーロー、チトフナマンも登場しているそう。
「チトフナマン、最近は街のイベントにもひっぱりだこで忙しいみたいでね。劇団のみんなとも仲がいいから、たまに顔を出してくれるんですけど。呼んでみようか(笑)」
三郎さんはいたずらっ子のようにニカっと笑った。
楽しく混じり合いながら、演劇をつくり続けていく
後日、丸福ボンバーズのメンバーで集まってワークショップをすると聞いておじゃました。落語の語りが入ったユニークなラジオ体操で身体をほぐすと、「これからいくつかゲームをしようと思うんです。よかったら一緒にどうですか?」と誘い入れてくださった。そのゲームというのは、演劇のウォーミングアップとしてはポピュラーなものだそう。身体と頭を同時に動かし、言葉を投げたり受け取ったりしていくと、少しずつ心がほぐれて輪の中で空気が混じり合っていくよう。そして、異なる性質を持つ人たちが少しずつ馴染んでいく様は、お菓子作りで材料を丁寧に混ぜあわせる過程にも似ている気がした。
劇団員の方に聞けば、丸ボンとの出会いはさまざま。「演劇は素人だったんですけど、バイトしていた店で知り合って声をかけてもらって」とか、「音楽が本職ですけど、ある舞台で知り合って一緒にやろうよって言ってもらって」とか、三郎さんによって演劇の世界に引き込まれたメンバーも多い。「サブさん、ナンパ師なんですよ!」なんてタレコミも。すると、「僕、いい加減な人間なので、一緒に呑むとすぐメンバーにしちゃって(笑)。知らない間に劇団員が増えちゃったりしてね(笑)」と三郎さん。
「丸ボンはいい意味でぬるま湯というか癒しなんですよ。一緒にいると疲れが取れるというか。ホームみたいな、地元みたいな、そんな場所です。僕がかつて体験していたのはその真逆で、ちょっと嫌だなと思いながら稽古に行っていた時期があるんですけど、丸ボンのメンバーにはそういう思いをしてほしくはなくて。楽しく一緒に作りたいんです」
そして、思い出したかのように、ぽつりこんなことも話してくれた。
「僕、学生時代に文化祭とか体育祭の準備をみんなでするのが好きだったんです。前日まで誰かの家のガレージに集まって遅くまで作業をするとかね。そういうことのプロになろうと思った時があって、今思えばそれが演劇だし、今まさにそれをやっているなと。極端なことを言えば、集まって飲むだけでもいいけれど、それよりも何かを一緒に作って楽しみたいし、その先のお客さんもみんなで楽しませたいんです。学生の時のようなわくわくは、今も感じていますよ。でも、脚本が書けたら……ね!(笑)」
今年2月には、東京サンシャインボーイズが活動休止宣言から30年ぶり、シアタートップスでの特別公演からは15年ぶりに復活を遂げ、演劇ファンからも注目を浴びた。三郎さんも演出補として参加されたのだが、自分が作りたいものにも気がついた今、東京サンシャインボーイズをどんなふうに感じたのだろう。
「劇団員とは久しぶりに会ってもなにも変わらない親戚みたいなのですが、三谷さんに会うのは今もちょっと緊張しますね。新作は、今まで見たことがないような作品で、脚本を読んだだけだとドラマチックなことは何も起こらないんです。でも、いざ三谷さんが役者たちに『こういう気持ちでやってみて』と伝えると、どんどんおもしろくなっていく。それに、出演する役者とは僕も付き合いが長いですが、三谷さんの演出が入ると、この人こんなふうにもなるんだ、っていう驚きがあって。これが東京サンシャインボーイズなんだな、とあらためて思いましたね。今回は、演出補ではあったのですがほとんど何もしていなくて(笑)。三谷さんの隣に座らせてもらって、特等席でおもしろい芝居を見せてもらっていた感じ。かつては自分もその中にいたくせに、客観的にこの劇団の魅力を感じてしまいました」
最後に、三郎さんがこれからどんなことをやってみたいのかを訊ねてみたくなった。
「新しいなにかというより、やっていることを続けること。そして、諦めないことかな。大儲けはできないし、大変で苦しい時もあるけれど、それでもやる意味があるから続けていく。それがこれからもやりたいことかな」
厳しい環境の中で稽古が嫌になった日も、脚本が書けなくてパソコンの前で悶々とする日も、決して演劇を辞めることはなかった彼が言う、「続けていく」という言葉。そこに、これまでの日々でゆっくりじっくり温められた演劇への情熱と信念と、やわらかで強い覚悟みたいなものがちらりと見えた、気がした。
丸福ボンバーズ
ウェブサイト:http://marufukubombers.com
インスタグラム:@mfbombers
YouTube:https://www.youtube.com/c/mfbombers
APOCシアター
住所:東京都世田谷区桜丘5-47-4
ウェブサイト:https://www.apoc-theater.com